リレー小説5
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 少年の最も古い記憶は、
 母親に手を握られ、今まさに列車に乗ろうとしているものであった。
 その記憶の中での母は、
 まだ乳飲み子であった少年の弟をもう片方の腕に抱え、腹に妹を宿しながらも、穏やかに微笑んでいた気がする。
 その母親に何事か話す男が自分の父親だということは、なんとなくわかった。
 ただ、その父親が何故悲しそうな顔をするのか、幼い少年にはわからなかった。

『本当にすまない。
 私が君に出来ることが、君の実家まで送り届けることだけだなんて、の無さを呪いたくなる』

『いいのよ。私のほうこそ謝るべきだわ。
 ……私にがあったからこそ、こんなことになってしまった』

『そんなこと言わないでくれ、マチルダ』

『……そうね、ごめんなさい』

『すまない。必ず迎えにいく。だから、絶対に生きていてくれ』

『わかっているわ。あなたこそ、死なないで』

『ああ、大丈夫さ。私にはこの銃がある。なんとか生き延びてみせるよ。だから──』

『……ええ。あなたが私を迎えにきてくれることを、私は信じていますから』

 少年には、父と母が何を言っているのかわからなかった。

 それまで少年には別の名前があったが、その日、彼は礼一という名前になった。
 昔使っていた名前は、忘れてしまった。
執筆者…夜空屋様

 母親であるマチルダは日本人とギリシャ人の間に生まれ、ギリシャの片田舎で育ったという。
 彼女は生まれつき、ある特異な能力を持っていた。
 他者の怪我を癒す、治癒能力である。
 だが彼女の両親は、決してその能力を人前で使ってはいけないと教え込んだ。
 無闇に傷を癒して、よからぬ噂が流れることを恐れたのだろう。そして彼女は、両親の言いつけを忠実に守った。
 その後成長した彼女は、父親の仕事の都合で英領へと渡った。
 そこで出会った青年と恋に落ち、やがて結婚、三人の子を宿した。

 その頃世間は能力者差別の風が吹き荒れていた。
 能力者を受け入れられなくなっていく世界、
 マチルダから能力者であると打ち明けられた彼は、しかしすぐにそのこと受け入れることが出来た。
 このままだと自分の住む国すらも能力者を拒絶することになると確信できるほどに、世界を客観視できたからこそなのだろう。
 身の危険を感じ始めた彼は、妻と子供を妻の実家に送った。
 ギリシャには能力者が集まった集団もいるというし、能力者に寛容だと思ってのことだ。
 それと同時に、彼はある事情で妻子の前から姿を消した。
 その理由を礼一が知るようになるのは、もう少し後の話である。

 

 礼一の暮らす家は、とある田舎町にあった。
 物資は乏しく、買い物に行くためには片道一時間の山道を歩いて街まで出なくてはならない。
 結晶を利用した重さを軽減させるバッグを使っても、往復二時間の徒歩は三人目を産んだばかりの彼女には辛いだろう。

 礼一が母親の力を知ったのは、彼が道端の石につまずいて転んだ時のことだ。
 ちょうど母親の買い物につき合わされていた帰り道だ。膝を擦り剥いてしまい、痛みに泣き出してしまいそうだった。
 すると母親がキョロキョロとあたりを見回して、礼一の擦り剥いた膝に手を当てたのだ。
 途端に擦り剥いた場所の傷は無くなってしまった。まるで最初からそんなもの無かったように、痛みも消えてしまった。

「おかあさん、今の、なに?」

 礼一が驚いて聞くと、母親は困ったような顔をして、人差し指を口に当てた。

「ひ、み、つ。いい? 今のは礼一とおかあさんだけの秘密よ」

 微笑みながらそう言う母親の顔を、礼一は冷めた目で眺めていた。

「おかあさんって、すごいね」
「もう、礼一ったら……私は別に凄くもなんともないわよ」



 礼一は頭がよかった。
 それは学業の成績が良いとかそういうレベルではなく、
 自分の立ち位置を理解しているという点で、明らかに他の子供たちとは違っていた。
 学校では決して優等生は演じない。何かに突出していればそれが妬みを生む。
 かつて通っていた学校と比べれば幼稚園のおゆうぎのようなテストも、
 まわりのレベルにあわせて幾つかの問題をわざと間違えた。
 そうしていらぬ敵意を抱かせず、礼一はすぐに周囲に馴染んでいった。 
 些細な思い付きだった。
 偶然が重なったことに、たまたま気付いただけなのだ。
 当時、八姉妹といえば世界を代表する八人の聖女である。
 だがその頃の礼一が住んでいた田舎では、八姉妹はせいぜい「凄い女の人」という程度でしか知られていなかった。
 その田舎町では、あまり能力者のことも知られていなかった。

 不幸な偶然が重なっただけだった。
 八姉妹の一人と礼一の母親が同じ名前だっただけだ。
 そして、礼一の家は貧しく、彼自身がその状況に耐えられなかった。

 

「どうしておかあさんは、
 あんなすごいちからをもっているのに、うまくつかわないんだろう」

 

 その田舎町にある日、とんでもない大ニュースが走った。

 

「どうしておかあさんは、
 こんなびんぼうなせいかつを、ぼくらにおしつけているんだろう」

 

 かの八姉妹の一人、マチルダが、この田舎町で隠遁生活を送っているというのだ。

 

「どうしておかあさんは、
 マチルダってなまえなのに、それをうまくつかわないんだろう」

 

 彼女は触れるだけで傷を癒す、奇跡の力を持っているのだという。

 

「どうしておかあさんは、
 ぼくとちがって、あんなに────」

 

 噂は田舎町の中だけで駆け巡る。他所の町には噂は広まらない。
 何せ、そこは山道一時間かけないと隣町に行けないほどの田舎だ。

 

「あんなに、馬鹿なんだろう?」 
執筆者…夜空屋様

  ギリシャ共和国、中央マケドニア地方、テッサロニキ

 

アトス自治修道士共和国は旧世紀より女人禁制・禁欲主義を貫き、
宛ら世捨て人のような生活を続けていた。
だが或る日、修道院にネット環境が整った…
修道士達は挙ってエロ画像・動画集め勇往邁進し、ファイル交換ソフト使いまくり、
ネトゲにハマるわ、日常生活でネットスラング使うわ、すっかり堕落してしまった。
故にか…其の反動で怪物染みた狂信者が生まれたのも、
そして彼に堕落した自治領の再興が託されたのも仕方のない事なのかも知れない。

ハギオス・デメトリオス聖堂の内部は静まり返っていた。
講堂に並べられた椅子にはテッサロニキの町の重鎮達が座り、
演壇に立っている、黒い僧服を纏い胸に十字架を輝かせている老人…
怪物染みた狂信者であるところのメトディオス修道院長の言葉を今か今かと待ち侘びていた。

「さて、朗報です。
 当初に見込んでいた以上にギリシャ国民のシンパは我々にあり、
 中央ギリシャ地方までの全ての町の人々が我々の聖務を歓迎して下さいました。
 我々は能力者達の横暴と逆差別に長年耐え、いつかは心が通じ合う事を信じましたが、
 議会に入り込んだ彼等が能力者の更なる優遇を掲げるという悪辣な裏切りを働くに至り、
 最早、力を以ってでしか事態を解決する方法はないのだと悟りました。
 そしてこれは決して我々の思い違いなどではなく国民の総意だったのです!
 国会議事堂前でも同志が反乱を起こし、野党は首相の退陣と早期解散総選挙を求めました。
 そう…今、我々がこの国を築き上げているのです。真なる民主国家の姿なのです。
 これまでは?
 突如発生した能力者というイレギュラーが自らの力で詐欺や犯罪を繰り返し、
 其の批判を差別に摩り替え、鶏卵前後論争に持ち込んで話題の風化を待ち、
 我々に譲歩を持ちかけ和解する裏では変わらずの悪逆三昧。
 能力者の異能を封じる手段を持たない我々がどれだけ搾取された事か…!
 だが悪が栄えるためしなど所詮ありはしなかったのです。
 これより其れを皆さんへ御覧に入れましょう」

演壇を下りて講堂を突き進み聖堂から外へ出るメトディオス修道院長。
テッサロニキの重鎮達も次々と其れに続く。

ハギオス・デメトリオス聖堂の正面広場は人の海と化していた。
ギリシャ中から能力者に反感を持つ人間が集っていたのだ。
そして彼等は今尚も各地で数を増やし、
能力者狩りを続けながらメトディオス修道院長の許へと動いていた。
異能の力を持った能力者といえど其の大半は一般人と変わりなく、
暴徒と化した非能力者を相手に抗える程の者は極僅か…
非能力者の能力者狩りは今のところ何の障害も無く順調に進んでいた。
其の成果のほんの一部が此処にある。

「悪かったわよ!お金は全部返すから!
 此処からも出て行って二度と戻って来ないから!
 だからどうか命だけは助けて!」
「やめて!私達は悪くないっ!」
「誰か!…誰か助けてくれぇ!」

広場中央に並んで立てられた十字架へ磔にされた男女が叫ぶ。
いずれも能力者。
能力を悪用して非能力者を食い物にしていた詐欺師や殺人者が、
ただ能力者であるというだけで捕まった無辜の民と共に磔にされていた。

「見苦しい…死に際くらい大人しくなさい。
 神の属性はであります。
 美しくない…全く美しくない…このような者共、神の御心に反する。
 …浄化せよっ!

メトディオス修道院長の合図と共に、
十字架の下に積まれた枯れ木へと火が放たれる。
迸る絶叫は民衆の放つ歓声の中に敢え無く埋もれた。
「美しい…邪なる能力者が今、確実に裁きを受けているのです。
 能力や賄賂で牢を抜け出す事も、蚕食された権力が護る事もありません。
 間違いなくが成されている!何という美しさか!」

ギャアアアアアアアアァァァァァァアアっ!!
 何でっ!?私の何が悪いっていうの!?
無辜の女が叫ぶ。
「確かに…貴女の提示した証拠は貴女の無罪を主張している…」

メトディオス修道院長が書類の束を取り出し、女の前で其れを翳してみせる。
其れは普通ならば彼女が犯罪と無縁である事を証明するものであった。
「…なら!」

「でも……貴女は能力者です。
 証拠を捏造出来る能力を持っているのかも知れない…
 我々の目を誤魔化しているのかも知れない…」
実際にあった事だった。
悪質な能力者による証拠の捏造、記憶の改竄すらも行われ、
其の殆どは何ら罰を与えられる事もなく野放しとなっていたのが現状。
故に彼等は信じない。能力者の全てを。
「お願い!…信じ…て……!」
懇願を受けるもメトディオス修道院長は憤怒の形相で其れを撥ね退ける。
「誰が信じるか!能力者は何一つ信用出来ない!
 我々は相手が能力者である限り、
 其の如何なる身分も主張も証拠も証明も認めないっ!」

「わた…しは………潔白……」
「清らかな女性とは生神女マリヤ様のみであります。
 其れ以外の女は全て穢れた魔性の者に過ぎない…
 …身の程を知れ、このメスブタがぁあ!!」

既に事切れた女に向かって吐き捨てるメトディオス修道院長。
能力者によって抑圧された鬱憤を思うがままに晴らせるという快感に人々は酔い痴れた。

「「「主イエス・キリスト、神の子、罪人なる我を憐れみ給え」」」

「我々の運動は欧州全体に飛び火しているとも聞きます。
 穢れた能力者達を根絶やしにする他、我々の暮らしを…未来を守る方法はありません!
 もう、この流れは止められません!止まりません!止めさせてなるものかっ!
 このまま不浄なる能力者達を裁きながら、
 我々の新たな砦となる中央ギリシャ地方の主都ラミアまで突き進みます!」
執筆者…is-lies

 どうして、こんなことになったのだろう。

 樹川マチルダは静かにため息を吐いた。
 確かに長男の礼一は、この貧しい生活を変えてくれた。
 しかし、そのためにとった手段はまずかった。

「あの人に似たのかしら……悪いところが」

 今は何処にいるかも知れない夫を思い出しながらそう呟いて、すぐにそんなことを口にした自分を責める。
 礼一は頭がよかった。
 『八姉妹』のマチルダというネームバリューと、その功績を知らない人の方が多い
 認知度の低さを利用した、樹川マチルダによる治癒施設。
 医者もろくにおらず、交通や情報などに疎いこの片田舎で起こした、詐欺行為。
 八姉妹マチルダの噂を流したのは礼一であることは、もはや疑いようが無い。
 あの子はあまりにも頭がよすぎたのだ。
 いつの頃からかマチルダの家には怪我人で溢れかえっている。
 マチルダの治癒能力は実は大したことは無い。
 骨折程度で一時間はかかるのだ、重症人なら一日を治癒に費やすこともある。
 だからといって怪我人を放っておくことも出来ず、買い物にもいつしか行かなくなった。
 幸いなのは──本来なら幸いと言ってはいけないことだが、治癒のお礼として食料をわけてもらえることだろう。

 慣れない機械の扱いに失敗して腕を折った男の治癒に専念する彼女の姿を、
 次男の聖二の寂しげな眼が見つめていた。



 嘘は必ず綻びが出てくるものだ。
 やがてその田舎町の聖女の噂は隣町に広がる。それが八姉妹のマチルダだという噂も。
 しかし情報に疎い田舎町ならともかく、
 ネットワークが普及している隣町ならば、どのような結果が見えているかは語るまでも無い。

 不幸はさらに一つ重なった。
 その国では既にかなり能力者排斥運動が盛んになっていたが、
 ついにその風潮が田舎町にも染み込みはじめたのだ。
執筆者…夜空屋様

町人達の態度が余所余所しくなってゆくのを感じながら、
そろそろ自分も御役御免になる時が来た様だなと考えながら、
往診の収入であるミルク缶を載せた台車を押して帰路を進む樹川マチルダ。
両親が彼女に言い聞かせてきたよう、やはり力を無闇に晒すべきではなかったのだ。
礼一は事あるごとに町人達へ
「マチルダの噂を他所へ流すと、其の分マチルダが多忙になり、この町に手が回らなくなる」
と言って口を噤むようにさせてはいたのだが、所詮は子供の浅知恵。
人の口に戸は立てられず、人の繋がりも途絶える事はない。
だから必然。覚悟はとっくに出来ていた。
「貴女が…マチルダさんですね?」
放牧地の柵に腰掛けて夕日を眺めていた少女が、
目の前を通り過ぎようとしたマチルダへと声を掛ける。
「……質問を返すようで恐縮ですが、どちら様でしょうか?」
「成程、貴女が……くすくす、
 ならばマチルダ・レム・ホワイトローズを騙ると良いでしょう。
 其れが八姉妹マチルダの本名ですので」
「………そう…どうやら人々を欺いた報いを受ける時が来たようですね」
少女の外見はどう高く見積もっても10代を上回るものではなく役人には見えないが、
ギリシャには能力者の特殊部隊のようなものが設立されている。
恐らく、この少女もそういった『認められた能力者』の類なのだろうと考える。
「ああ、勘違いはしないで下さいまし。
 わたくしは別に貴女の小遣い稼ぎを責めている訳ではありませんのよ?
 寧ろ応援する立場であると考えて貰っても結構ですわ」
「応援?」
「わたくしは単に八姉妹の名を広めたいだけ…
 其の名を広めてくれるならば偽者でも構いはしないのです。
 …貴女が八姉妹の名に泥を塗りそうな人でなくって安心しましたわ。
 わたくし、オルトノア・ヴェル・ガイリスと申します。以後、お見知りおきを」
そう言って少女は柵から降りると、野暮ったいコートの裾を詰まんで会釈する。
伸びきった前髪に半ば隠された両目はマチルダの反応を窺う様に細められていた。
「……解りかねますね。
 貴女は八姉妹を有名にしたがっているようですが、
 私のような偽者が広めた名にどれだけの価値が宿ると言うのですか?」
「あら…そう返されるとは思いませんでしたわ。
 …んー、そうねぇ…貴女と一緒ですわ。
 其の意味など解らずとも家畜が群がるようなモノにさえなれれば」
マチルダには、このオルトノアが何者であり何を考えているのかなど解りはしない。
だが其の言葉で彼女が、実子・礼一と同じような…
到底、好感を持てそうに無い物の考え方をしている事だけは解った。
「価値など、その時その時で移ろい行く儚いものに過ぎませんわ。
 治癒程度しか取り得のない能力者に過ぎない貴女が、僅かな嘘を基に八姉妹と崇められ、
 そして今、忌まわしい者として狩り立てられようとしているように」
「!」
「ギリシャ政府は長らく能力者保護を謳っては来ましたが、
 やはり土台、無理な話だったのですわ。
 能力者は能力者。非能力者と同じ土俵には立てません。
 能力者の絡んだ犯罪の発生率がどの程度が御存知ですか?
 其の上、能力者保護を更に進めようというのですから、
 非能力者が彼等を追い出そうと躍起になるのも良く解ろうというものですわ」
慈愛に満ちた人道を以って能力者に接する…
が、其れは行き過ぎた能力者保護…逆差別を生み出すケースが少なくなかった。
其の尻馬に乗った能力者が横暴さを増すというケースも同様。
「…ギリシャ内の自治区であるアトス自治修道士共和国が、
 ギリシャ外務省宗教課の制止を振り切って実力行使に出ました。
 賛同する市民達による能力者狩りが既にマケドニアやテッサリアで始まっています。
 女性を「男を惑わす穢れた者」と看做すアトス自治修道士共和国らしく、
 能力者排斥運動というよりは魔女狩りに近い雰囲気ですわ。
 ギリシャ政府も件の能力者部隊『聖ント』で各地の暴動を鎮圧して回っていますが、
 彼等が来るよりも暴徒達が此処に来る方が早いでしょうし、
 八姉妹の名を出しても聞き入れてくれるかは怪しいところ…
 …一旦、何処かへ身を隠す事をオススメしますわ」
 外見年齢を感じさせない物の言い方をするオルトノアの眼は、
 樹川マチルダの身の安全を確保したいという意図は感じられない。
 その目的はよくわからないが、マチルダはそれを好意的なものだとは思えずにいた。

「ご忠告ありがとうございます。
 ……ですが、いまやこの地球上に隠れる場所などあるのでしょうか。
 それに、私には三人の子供がいます。あの子たちを置いていくなど当然出来ません。
 だからといってあの子たちを連れて行ったとしても、いずれは捕まってしまうでしょう。
 そんなことになってしまったら、命をかけて私たちを逃がしてくれた夫に申し訳が立ちません」

「……そう。なら、貴女に出来ることは自らを盾に子供を逃がす、その程度ですわね」

 どこかつまらなそうな顔をするオルトノア。
 小さくため息を吐き、すっ、とマチルダの背後を指差した。

「え?」

 思わず振り返るが、マチルダの後ろには何も無い。
 せいぜいあると言えるのは、心無い誰かが捨てたまま錆び付いた自転車くらいなものだろう。

「一体、何が……」

 オルトノアの方に向き直るが、そこには既に何もない。
 まるで最初から存在しなかったかのように、少女の姿は消えてなくなっていた。



 マチルダの背後を指差し、彼女が振り返るその瞬間にその姿が一瞬で消え去るその光景を見たものは、
 たまたま近くに遊びに来ていた樹川礼一、ただ一人だけである。

「なんだ、あれ」

 そんな言葉が口からもれたことにすら気付かず、礼一は大木の陰で立ち尽くしていた。
執筆者…is-lies、夜空屋

 扉が勢いよく開け放たれ、魔女を殺すという流れに飲み込まれた群集がなだれ込んだ。
 やけに整理された屋内に脇目も振らず、自分たちを騙していた魔女を探す。
 この部屋にはいない、クローゼットに隠れているのか、なら探せ、そして捕まえろ。
 整理整頓など無意味だと叫ぶように、家財は破壊されていく。
 やがて誰かが声をあげた。この部屋にいたぞ、と。

 住民たちの憩いの場として人々の笑顔が賑わっていた町の広場は、いまや能力者の処刑場と化していた。
 夏の暑い日は涼める場所として満員御礼だった老木の枝には、いくつもの縄がかけられ、
 何人もの能力者の亡骸が、たわわに実った果実のようにぶら下がっている。
 いつもは本場仕込みのタコスという名の、タコスではない何かを売っていた屋台の主人も、老木の果実の一つになっている。
 そのタコスをまずいまずいと言いながらも笑いながら毎日買っていた気さくな青年は、果実となった屋台の主人目掛けて石を投げている。
 恋人たちが待ち合わせに使っていた小さな噴水は赤い血を噴出し、
 つい先日までは永遠の愛を誓い合っていた女は恋人だった男に火をつけた。
 数分ごとに落とされるギロチンの刃。
 今首をはねられたのは、この町でも一番の力持ちの男。次に首をはねられるのは、美人で優しいと評判だったシスター。
 そこで首を吊っている人も、そこで火あぶりになっている人も、頭と胴体が断たれた人も、能力者だったから。

「能力者に騙されるな」
「奴らは悪魔と同じだ」

 彼らの合言葉はただそれだけだ。
 能力者の疑いがあるならば殺さなくてはならない。そうしなければ、今頃自分が殺されていたのだから。
 奴らは人間ではない。奴らは甘い顔をして擦り寄って、我々を破滅させる。奴らは悪魔なのだ。

「あなた、やめて! 私のお腹の中には赤ちゃんもいるのよ!?」
「その赤ん坊も能力者だろうがッ! くそっ、このアマが! この俺を騙しやがって!」
「いやぁぁぁぁぁっ! 熱い熱いあついアヅイア゛ツ゛イ゛
 彼らは殺人に躊躇しない。

「死ね死ね死ね! テメェは前々からウザかったんだよ! あれだろ、この前のテストだってオメー、能力使ってたんだろ!?」
「ち、ちが」
「うるせぇッ! 死ねよお前は!?」

 何故なら、彼らが行っているのは殺人ではないからだ。

「やめて、ママ、いたい、いたいよ、ママ」
「なれなれしくママなんて呼んでんじゃないわよこの悪魔が!
 どうせ本当のエリザベスに能力でも使って成り代わってたんでしょ!?」
「やめ、ママ、ママぁ……」
「返しなさいよ! エリザベスを返しなさいよ! この悪魔ッ! この悪魔がッ!」

 彼らは人を殺すなんて冒涜的な真似などしていない。

「お、おいっ、俺たち親友だったろ!? やめろよ、やめてくベッ「へひっ、ひひっ、あ、あくまを……ころせたぞぉ〜。ふひひっ」

 彼らが殺しているのは、能力者という名前の悪魔なのだから。
 いや、殺すという言い方もおかしいだろう。彼らが行っているのは、行っているつもりでいるのは、粛清なのだ。

 広場にまた一人、能力者、いや、魔女が放り込まれる。
 樹川マチルダ。
 この町で知らないものはいない、八姉妹の名を騙った悪魔、いや、魔女だ。 
 町長が高らかに叫んだ。魔女マチルダを捕まえたぞ、と。
 熱に浮かされた民衆が騒ぎ出す。
 マチルダに一晩かけて骨折を治してもらった男が叫ぶ。魔女を殺せ。
 マチルダに娘の病を治してもらった母親が叫ぶ。魔女を殺せ。
 マチルダに死に掛けのところを救われた青年が叫ぶ。魔女を殺せ。
 魔女に救われたなんてことを認めたくないとばかりに、声を張り上げて叫ぶ。
 魔女を殺せ。

 しかし、町長はその場の全員の声を遮った。

「粛清する前に聞きたいことがある。
 貴様の三人の子供は何処だ! 何処に隠した!」

 はっとなる民衆たち。
 そうだ、マチルダには子供が三人いたはずだ。それが、一人もいない。
 ということは、隠したか、逃がしたか。
 母親が魔女なんだ、子供が悪魔でない可能性が何処にある?
 いや、悪魔に違いない。そうだ、悪魔だ。魔女の子供なんだ、悪魔に決まっている。
 民衆たちがざわめきだす。

 マチルダは答えない。何も喋ることなく、目を伏せている。

「チッ。何が何でも吐かせてやるぞ! この魔女め!」

 数人の男たちが、マチルダを縛る縄を掴み、そのまま処刑台に引きずっていく。
 かろうじて抵抗しようとしたが、
 木の十字架に縄で縛り付けられ、処刑台に立たされる。

「さあ、答えろ。子供は何処だ?」

 喋らない。
 町長は側近の男から鞭を引ったくり、そのまま叩きつけた。
 鞭は腕と脇腹をかすめ、衣服を吹き飛ばし、その下から表れた白い肌を紫色に染め上げる。
 マチルダはうめき声一つあげない。

「フン、生意気な魔女め。早く答えないと、いつまでたっても終わらんぞ?」

 もう一発。肩を覆う布を弾けさせ、その下の肌を紫色に変える。

「いい加減に……」

 もう一度叩こうとした町長に、マチルダは頭を上げる。
 その眼は直接、町長の濁った両目に突き刺さり、町長はひるんだ。

「私を魔女と罵ることを咎めはしません。拷問も喜んでお受けいたしましょう。
 けれど、あなたが、あなたたちがこれからすることを、どうか忘れないでください。
 この私に、マチルダという一人の人間に対して行う所業を、決して忘れないでください」

 透き通った二つの眼。

「こン……の! 何が人間だ! この魔女が!」

 三発目の鞭が飛んだ。 
執筆者…夜空屋様

 薄暗い山道を子供がひたすら走る。
 子供の足で進める道のりなどたかが知れている。
 だが、その子供の進む速さは尋常ではなかった。
 まだ齢十にも満たないであろう少年が、
 その腕に赤子を抱き、その背に明らかに年上の少年を担いでいながら、
 それこそ平坦な道を走るバイク程度のスピードを出しているのだ。

「おにいちゃん、ぼく疲れたよ」
「ダメだ、もうちょっと頑張れよ」

 バイク並みのスピードを出して走る少年が息切れを起こしながら、
 背に乗った少年に話しかけるが、即答で却下される。

「もうやだよ。疲れたよ。もうやめてよ」

 疲れたのなら休めばいい、と言うものは誰もいない。
 その異様な光景を見ているものは一人もいなかったからだ。

 息切れを起こして走る少年は弟だ。その背に乗るのは兄だ。
 息も絶え絶えの弟は走ることをやめない。
 いや、やめられないのだ。

「もう、いやだよ、疲れたよ」
「もうちょっと走れるだろ、聖二」

 兄の名前を礼一、弟の名前を聖二という。
 たった今、拷問を受けている樹川マチルダの子である。



 樹川マチルダの子である三人は、全員が能力者である。
 礼一は他能力者の能力を強制的に発動させる力を。
 聖二は脚力強化による加速の力を。
 すなわち、この異様な光景の原因は、礼一が聖二に対して能力強制発動を行っているだけである。



 山の頂上に辿り着いた聖二の能力を解除してやり、木々の隙間から町を見下ろす。
 豆粒のように小さい町並みからですら、狂気と化した民衆の掛け声が聞こえた。
 黒い煙があがっているのは、誰かが燃やされているからだろうか。

「ははっ、見なよ聖二」

 呼ばれた聖二はというと、息も絶え絶えに、老木に寄りかかっている。
 とても立ち上がれそうにはない。しかしその腕は相変わらず赤子が抱かれていた。
 そんな弟の姿に目もくれず、礼一は笑った。

「ばっかみたい! なにが魔女だよ、誰のおかげでケガとか治ったと思ってたんだよ」

 けらけらと笑う礼一に、聖二は何か言う気力も湧かない。
 無理やり行使された加速能力は、必要以上に聖二の体力を奪っている。

「すごいだろ。これ僕がやったんだぜ」

 何も言い返せない。そんな気力すら無い。

「僕が! あいつらを動かして! ははっ」

 礼一が吐く言葉すらも、どこか遠く聞こえる。 

「さて、と」

 満足したのか、礼一は今まで一度も手放さなかったリュックサックを背負い、聖二に笑顔を向けて言った。

「行くよ、聖二。もう一走りしよう?」

 聖二は、その言葉に驚くことすら出来なかった。
 肺が燃えるように熱いので、一言口にするだけでもひどく疲れる。

「休ませ、て」
「そんなこと言うなら置いていくよ。じゃあね」

 あっさりと、ゴミをゴミ箱に入れることをわざわざ宣言するかのようにあっさりと、礼一はそう言い放った。
 今度こそ、聖二は驚いた。

「おいて、かないで」
「だって邪魔だもん」

 たったそれだけ。
 礼一はその一言だけを吐き捨てて、聖二の視界から消えた。



 どうして。

 その呟きも、とっくにどこか遠くに走っていってしまった礼一には届くわけがなかった。












「起きたまえ、少年。……目覚めたか。ここは危険だ、暴徒と化した連中がすぐにここに来る。
 ……動けないのか? ……仕方あるまい。
 ん? 私?
 いやなに、ただの通りすがりだ、気にするな。
 喋れるか? 名前は?
 セージ、マイ……うむ、よい名だ。

 ……セージに、マイだって? いや、そんなことが……。
 偶然か……?
 それとも……」 
執筆者…夜空屋様
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