リレー小説4
<Rel4.神野2>

 

 

 それはまるで隔離病棟の個室の様であったが、同時に囚人を閉じ込める牢獄のようでもあった。
 ひとつひとつの部屋に出入り口は見当たらず、
 5メートル四方の立方体の箱のある一面が全て強化ガラスに覆われ、それが通路の両側にいくつも敷き詰められている。
 通路を歩いていると嫌でも部屋の中が見えるので、神野はそろそろウンザリとしてきていた。
 通路から部屋の中まで全てが真白いその空間は、嫌でも部屋の中のそれらを浮き上がらせる。
 ひたすらケタケタと笑い続ける、顔の半分が白骨化した青色の男。
 部屋の壁にこびりついた、どう見てもただの巨大な肉の塊。
 自分の腕をもぎとり、すぐに生えてくる腕ももぎとり、大量の腕の山に囲まれる女。
 互いの血液を吸い続ける双子の少女。
 そんな人では無くなってしまった人間の末路ミュージアムを、神野は一人、ぼうっと歩いていた。
 ──こんな感じのばかり続くんなら、収穫はなさそうだな。そんなことを考えながら。

 ここは収容所のようなものらしい。実験に使ったはいいが、始末するのも面倒な連中をここに閉じ込めた、というようなことであろう。
 ざっと見ただけでも、ここに閉じ込められているのは殺しても死ねなさそうな異形ばかりである。
 恐らくは、不死に関する研究でもしていたのだろう。

「(下手したら、自分がここに陳列されてたかもな)」

 相変わらず、ここは狂気が満ち溢れている。
 やがて通路の向こうに、いかにも「危険なものが向こう側にいるぞ」という警告むき出しの、物々しい金属製の扉が見えてきた。
 その扉の前に座り込んでイヤホンを耳にさしている眼鏡の男が、神野の姿に気付き、立ち上がる。

「やあ、遅かったじゃあないか。待ちくたびれたよ」
「よォ。早いな、ハインツ」


 よれよれの黒いスーツを着たその男は、神野という名前を持っている。
 レギオンと呼ばれる戦闘部隊に所属し、その中でも肉弾戦に関しては1,2を争う実力を持ち、
 その力が認められて、SSと呼ばれる力を移植された。
 中でも「セイフォートの骨」は、格闘戦に限定するならばその頂点を争うという。
 神野自身、その力を実際に使ったわけではないが。
 そんなわけで──神野はレギオンでは、近接戦闘の頂点に立っている。

 そんな彼がただの一研究員であるハインツと友人のような関係を持っているのは、
 それはただ単に音楽の趣味が合っていたというだけであった。
 ハインツは他の研究員と同様に変人かつ狂人ではあったが──

「さて、それじゃあ宝探しをはじめようか」

 同時に、自分が所属する組織の暗部を誰にも知られずにほじくり返すのが趣味の暇人でもあった。

「わざわざこの俺を誘ったんだ。よほどこの奥にゃとんでもねェ化け物がいるんだろうな」
「そんな化け物がいるんだろうから君を誘ったんだよ」

 イヤホンを外し、鉄の扉に向き直るハインツ。
 両隣には下半身がゴリラ、上半身が筋肉が膨れ上がった異形、
 顔が赤ん坊という巨人と、全身から植物のツルが生えている少女がこちらをじっと見ていて、神野は居心地が悪くなる。
 よくハインツはこんな連中に囲まれて平気でいられるなぁと考えながら、自分も鉄製の扉を眺める。

「ただの鉄の門みてェだな。これだったらかんたんに破れるんじゃねェか?」
「これはただの鉄の門だよ。だがしかし破るのは無理そうだ」

 コッコッ、と鉄の門を叩く。ひどく鈍い音しか聞こえず、ほとんど響かない。
 鉄の門の横にはパスワードの入力装置がある。

「分厚いね。それも信じられないほど。こんな門を作るのはただのバカとしか思えないくらいだよ」
「で、その門を破るのはなんだ?」
「そいつもただのバカということさ。ほら開いた」

 16桁のパスワードを一字も違えることなく入力し、鉄の門が沈んでいく。
 その門の厚さは、10メートルはあるだろうか。いや、もはやこれは門とは呼べないだろう。
 これはだ。
 あふれ出る魔をせき止めるための堰だ。

「さて、いこうか」
「ああ、いこうぜ」

 そんな魔の領域に足を踏み入れる二人は、
 その行動が──たとえわずかであったとしても──『流れ』を狂わせるひとつの要因に為りえることに、気付かずにいた。

 

 鉄の扉がそのまま通路の床になるというのはなかなか斬新なアイデアだなぁと、ハインツは馬鹿馬鹿しいことを考えていた。
 彼自身、馬鹿馬鹿しいことを考えるのは好き──というかそもそも、
 科学者の考えることは何もかも馬鹿馬鹿しいものであるべきなのだという持論を持っているので、
 人間の成れの果てが押し込まれた個室を見ても、吐き気がするとかかわいそうとかまともなことを考えるよりも、
 「こんな真っ白な部屋にいたらストレス溜まりそうだな」という馬鹿馬鹿しい──少なくともハインツにとって──ことを考えるのだ。
 ともかく、10メートルはあるだろう扉の上を歩きながら、その先にいる『何か』への想像を膨らませる。
 たとえばこの向こうに身の毛のよだつ怪物がいたとして、それでもこの鉄の扉は過剰すぎるだろう。
 こんな扉を頑丈にするならば、壁や床を頑丈にしたほうがいい。
 自分が怪物ならば扉が開かなければその他の場所から脱出するだろう。
 鉄の扉を通り過ぎ、やはり真っ白な通路を進む。
 数歩進んだところで、鉄の扉が沈んだときと同じような音が響き、通路がかすかに震えた。

「……逃げ場なしってことか」

 神野の呟きを聞き、後ろを振り返ると、沈んでいた鉄の扉が再びせり上がっていた。

「ああ、そういうことか」

 ようやくハインツは理解した。どういうことだよ、と神野が聞く。

「つまりこの扉は、中にいる何かを出さない、というよりも、入った奴を出さない、ということが目的だということさ」
「なんだそりゃ」
「すなわち僕らはエサ、ということになるのかな? どうしよう神野、僕らは逃げられない」
「ああ逃げられねェな。まぁ、なんとかなるだろ……ってオイ」

 神野が変な声を出す。見ると、鉄の扉の横に、入ってきたときに触れたのと同じような入力装置があった。

「よかった、これなら逃げ出せるみたいだね」
「ところでハインツくん、君は帰りのパスワードはわかるんだろうね?」
「わからないんだよね?」
「……オイコラてめぇ」
「なぁに、たかが16ケタならなんとかなるさ!」
「信頼してやらねェぞ」
「信頼してくれよ」

 決して慌てるようなことはない。
 ハインツはこのパスワードを突破する自信があるし、神野もまた、この扉を突破する自信があるからだ。

「しかし……わけわかんねぇよ。結局、閉じ込めたいのか? 逃がしたいのか?」
「さあ。……一応確認しておこうか」

 入力装置に手を触れて、キーを叩く。

『パスワードが違います』
『パスワードが違います』
『パスワードが違います』

「よし、これかな」

 何回目かの入力で、ようやく鉄の扉が沈む。

「さっぱりわからん。この先にいる奴はなんなんだろうな?」
「さっぱりわからないね。パスワードを入力するほどの知能がないのか、それともそもそも扉なんて必要ないのか」
執筆者…夜空屋様

 少女の名は無かった。

 一面が白で塗りつぶされたこの部屋はあまりに広すぎるのだが、
 彼女に与えられた空間はそれほど広いものではなかった。
 首輪で繋がれた少女が動ける範囲などたかが知れていて、
 なけなしの知識を得られる本棚、一脚だけの椅子、トイレ、毛布の無いベッドと、おもちゃ箱。その程度でしかない。
 部屋の大部分を埋め尽くすのは、銀色の体躯を横たわらせる巨大な狼。
 侵入者の撃退のためというより、少女が逃げ出すのを防ぐためだろう。逃げるつもりなど別にないのだが。
 この部屋には扉が二つある。
 研究員やらなにやら、そして「同じ顔をした彼女」が出入りするためのもの。
 もうひとつは、狼の目の前にある侵入者のための扉だ。

 その扉が、突然開かれた。
 狼が目覚め、開かれた扉に向かって鋭い爪を振るう。
 その爪はただの足蹴りですべて折られ、ひるんだ狼に再び蹴りがお見舞いされる。
 ただそれだけの攻撃であっさりと、狼はただの肉塊へと変貌した。
 少女が思わず、それまで読んでいたラヴクラフト全集を落とす。
 唐突すぎるその一連の出来事に、彼女は開いた口が塞がらなかった。
 狼を一撃で殺した男は少女に気付くと、怪訝な顔をする。続いて現れた男は、楽しそうな顔をした。
執筆者…夜空屋様

 扉を開けた先に巨大な狼型クリーチャーがいたから殺したのはいいのだが、神野は落胆した。
 折角ここまできて、何がいるのか楽しみにしていたのに、いたのは女が一人、しかも子供ときた。
 今までのと比べれば、普通としか言いようがない。
 それとも何か、あんなナリでとんでもない化け物なのか?
 しかし殺気も何も感じないし、そもそも戦えるのかどうかもわからない。
 つまらない。収穫は不作だ。そう言おうとしてハインツの方を向くと、とてもとても楽しそうな顔をしていた。
「おい、どうしたんだよ」
「神野、君にはわからないだろうなぁ」
 そんなことを言われてもさっぱりわからない。

「あなたたち、誰?」
 かすれそうな声で、少女はそう尋ねた。
 神野は面倒くさそうに、ハインツはとても楽しそうに、宣言する。

「暇人だよ」
「変人さ」

 そんなわけで、少女は生まれて初めて、侵入者と呼ばれる珍妙な人種に出会ったのである。
 神野はじろりと、少女の容姿を眺めた。
 肩まで切りそろえた黒髪。伸びた前髪で目はよく見えない。
 貧相とした身体。誰の趣味かは知らないが黒いドレスを着せられている。
 その首にはチョーカーの代わりに鎖つきの首輪がつけられている。
 この組織の機密がこんな少女なのかと呆れている神野をよそに、ハインツは本当に楽しそうに少女の顔を見ていた。
「おい、ハインツ」
「なんだい神野。君はロリコンだったのかい?」
「何がどういうわけでそういうことになるのか小一時間問い詰めたい。というか鏡見ろ。
 ついでに言うと俺にはロリコン趣味もゴスロリ趣味もねぇ」
「今日はよく喋るね。何かいいことでもあったの?」
「……ブン殴りてぇ」
「やめてくれ、君に殴られたら洒落にならない。
 あと僕にはロリコン趣味ゴスロリ趣味もあったりするんだなぁそれが」
「なんでおまえと音楽の趣味が合うのが不思議だよこの変態」

 一方の少女はというと、目の前で繰り広げられる漫才染みたやり取りに呆然としていた。
 何も言わずに機械を取り付けて黙々とデータを書く研究員や、自分を敵のように見る長身の女性、玩具、
 そして自分と同じ顔の少女しか見たことがない彼女にとって、神野とハインツのような人間は本当に生まれて初めてだった。

「ところでだ」
 ハインツが突然話題を切り替える。少女の手をとり無理やり握手する。
「はじめまして、僕はハインツ・カールだ。君はなんていうんだい?」
 名前のない少女は、答えられなかった。
 そしてごく自然に少女に触れ合おうとするロリコン気味のハインツに、神野の軽い手刀が叩き込まれていた。
 首輪はつまらない。そんな理由で神野は鎖を引き千切っていた。ただの手刀で鉄鎖が軽い音を立てて切れる。
 少女は、この鎖は柔らかいのかと鎖をなぞるが、
 指から伝わるのは少女の細腕ではどうすることもできない冷たく堅い感触でしかしない。
 先ほど神野の手刀を受けたハインツは、それがなんでもないようにケロリとしている。
 少女は知らずのうちに首をかしげていた。
「おい神野、なんで鎖壊しちゃうんだよ。こういうのは鎖に繋がれてる背徳感ってものが」
「オーケー変態、黙ってろ」
「ひどいなぁ」
 ハインツは笑いながら、少女の髪をなでる。さりげない行動すらロリコン染みていた。
 神野が再びハインツに軽い手刀を叩き込みつつ、面倒くさそうに言った。
「その首輪まで外すの面倒だからあとは自分でどうにかしろ」
 少女は鎖をなぞっていた指を首に走らせる。
「どうやってはずせばいいの?」
「んなもン知るか。自分で考えろ」
「そうだねぇそれもチョーカーみたいでいいんじゃないかな似合ってるよ」
「おまえなんか妙に元気だな……」
 ロリコンを発揮し続けるハインツに、神野は深いため息を吐いた。

 少女が、自分に名前が無いことを述べると、ハインツはなら名前をつけてあげようと言い出した。
「嬉しいなぁ。こんな僕が君みたいな可愛い子の名前を決めれるなんて」
「ら抜き言葉だぜ」
「細かいんだよ神野は」
「というか命名の許可取ってねぇだろうが。本人の意見を尊重しろよ」
「細かいんだよ神野は」
「……細かいことかぁ?」
 少女は二人の漫才を無視して、問う。
「あなたたちの名前はなに?」
「ハインツ・カール。そっちは神野ファイヤシェルさ」
「待て待て、なんだファイヤシェルって」
「いいじゃないか。緋貝なんてヘンテコな名前よりかは格好いいだろ?」
「格好よくねぇよ! あと人の名前をヘンテコとか言うな!」
「……あなたたち、いちいちそういうやり取りしないと喋れないの?」
 少女は白い目を向けていた。

 

 椅子から立ち上がり、ベッドに移動する。
 それは寝やすいとは言い難いベッドだが、彼女にとっては長年過ごしてきた場所だ。
 ベッドに座り、開いている両側をぽんぽんと叩く。どうやら来てほしいようだ。
 少女本人は自分だけ椅子に座っているのがどうにもいい気分ではなかった。
 ハインツは嬉々として少女の右側に座り(密着するほど近い)、神野は面倒くさそうに左側に座る。
「さてと、みんなで君の名前を考えようか」
 ハインツが相変わらず少女の髪をなでる。
 少女も神野もすでに諦めているのか、二人とも同時にため息を吐いた。
「だがその前にひとついいか?」
 神野が手を上げる。そして、ベッドの隣においてあるを指差した。
「最初からツッこみたかったんだが、そりゃなんだ?」
「おもちゃ箱」
 少女がそう言うことに、二人とも納得したようであった。なるほど、ようやく狂気染みてきた。
 どうにも普通の少女に見えていたが、こういう狂った部分が無くてはつまらない。
 箱の中には、少女と同じくらいの年齢に見える人間が二人、うずくまっていた。
 その首には少女と同じような首輪がつけられている。その眼に光はなく、心を壊されているのだろう。
「そうかい」
 神野がそう呟いたきり、箱の中の二人は無視された。

「さて、まず最初に言っておこう。僕が彼女を知っていたのは単なる偶然なんだ」
 ハインツが突然脈絡のないことを言い出した。少女はつまらなさそうに足をぶらぶらさせている。
「なんのことだよ」
「いいから聞いてくれ。僕はいろんな組織を渡り歩いて、そのたびにその組織の暗部に触れてきた。
 そこで得た情報は誰にも渡すことはなかったけどね。そのひとつで手に入れた情報だよ、これは。
 ところで神野、君は八姉妹の名前を言えるかい?」
「ああ? いきなり何言って──おい、まさか」
「いいから言ってくれよ」
「……イル、イルフィーダ。玲佳。ゼノ……ゼノキラ。オルトノア。マチルダ。他は忘れた」
「十分だ」
 少女は会話についていけず、ベッドから立ち上がり、おもちゃ箱から虚ろな目をした女の子を引っ張ってきた。
 またベッドに座ると、少女は女の子を人形か何かを抱きしめるかのように、自分の膝に座らせる。
 その様子をハインツが楽しそうに眺めながら、続けた。
「さてところで神野、八姉妹のフルネームを言えるかい?」
「あぁ?
 ……そういや、八姉妹って名前だけは知られてんのに、フルネームは聞いたことねぇな。
 大方、暗号名じゃねーか? ほら、第三次世界大戦んときの英雄だって暗号名じゃん」
「ところがね、暗号名じゃないんだよ。
 彼女たちはまるで聖母か天使のように扱われているけど、それでも人間だ。
 ちゃんとしたフルネームは存在するんだよ。
 ただ、僕が知ってるのは二人だけだ。マチルダとオルトノアしか書いてなくてね。
 ええと、マチルダのほうはなんといったか──ああ、マチルダ・レム・ホワイトローズだ。
 だけどマチルダのことはどうでもいい、今重要なのはオルトノアだ」
 実際、八姉妹が世界にもたらした功績をすべて知っている人間は少ないだろう。
 マチルダと呼ばれた女が生命工学の権威であったことなど、なんの意味ももたないのだ。
 せいぜい知られているのは、第三次世界大戦が激化する以前から世界的に有名であった八人の女性が、
 大戦終結後にその命を散らして世界を復興させた、という御伽噺でしかない。
 そこに真実は無いし、真実と信じられたならば真実としか認識されない、その程度のことなのだ。

 ──そして、かの八姉妹と同じ名前の一人の女性が魔女とされたのも、その程度の意味しかもたらさないのだ。

「問題は、オルトノア女史だ。僕はそのとき、同時に顔写真も見ていてね」
「ってことは、やっぱりか」
「ああ。ねえ、君」
 不意に話しかけられて、それまで女の子を抱いてぼうっとしていた少女は、顔を上げた。
「君はオルトノア女史にそっくりだ」

 そんなことを言われても、少女は八姉妹がなんたるかも知らないし、オルトノアという人物も知らないのだ。
 ただ、首をかしげるだけである。
 …………。

 ……………………。


 ハインツがオルトノアの本名を告げても、少女は首をかしげたままだった。

「八姉妹というのはね、僕がまだ青春を謳歌していた頃に起きた戦争の後始末をした人たちさ。
 それはもう、当時は聖女のように祭り上げられたよ。彼女らの顔写真も何も無いことに誰も疑問を浮かべなかった」
「青春を謳歌してたってところにツッこんでいいか? いいよな? おまえこの前自分は中卒だとか言ってただろ」
「ああもう、君はいちいち細かいところを聞くなぁ!」
「それで、オルトノアって人と私はどういう関係があるの?」
「ああ、その話を続けよう。
 オルトノア女史の経歴はほとんどわからなかった。家族がいたという記録もよくわからない」
 だが、とハインツは続ける。
「君はオルトノア女史にそっくりなんだ。彼女を幼くしたら君になるだろうね」
 ってことは、と神野が訊ねる。
「クローンか」
「何もクローンと決まったわけじゃあないよ」
 第三次大戦以前のクローン技術は、技術というにはあまりにもひどいものであった。
 大抵の生まれてくるクローンは致命的なまでに短命であるとか、病原菌への抗体が無いだとかで、
 クローンが成功するということは癌の特効薬を発明するのと同じくらいに難しいこととまでいわれた。
 それを解決したのも結晶である。
 ある結晶の原石には様々な情報をそのままに記録することができるという特性を持つことが発見され、
 それは多くの分野で活用されることになった(その結晶もいまや貴重品だが)。もちろんクローン技術にもである。
 DNAの情報を完璧に記録できるそれは、完璧に同じ情報を持った二人の人間を創り出すことができるようになったのだ。
「天才や聖人のクローンという話はよく聞くけどね」
 そういったものは生命倫理がどうのこうのといまだに議論が交わされている問題ではある。
 というか国際法で禁止されている。
「まぁ、この話題はやめておこうか。僕はクローンというものが好きじゃあないんだよ」
「そうなのか?」
「自分のクローンがいると想像してみなよ」
「『誰がおまえのクローンを作るか、自惚れるな』。悪いな、俺はまずそう思考するんだよ」
「夢が無いなぁ」
「夢とかそういう問題かぁ?」
 少女は、膝の上に乗せた女の子の髪をいじっていた。

「さてと、君の名前についてだ。神野、君は何かいい名前を思いついたかい?」
「知るか」
 即答。ハインツはこの世の始まりのような顔になった。
「なるほどなるほど! ということは君の名付け親は僕ということになるなぁ! いやぁ最高だ!」
 神野と少女はハインツから少し離れた。少し傷つくハインツ、しかし彼はめげない。
「なんて名前がいいかなぁ? うーむ、アクラティアス、クァルフォルヴルケ、ネーリエスラミアス……」
「おまえ思いついた横文字を喋ってるだけだろ」
「覚えにくいから短くしてよ。あと三番目の名前だけは絶対にやめて。なんか生理的にイヤだから」
 早速ブーイングされるハインツ。それでも彼はめげない。
「短く、か。うぅむ、ドアラ、ラミア、ホルマリン……」
「ちょっと待て、なんだ最後のホルマリンって! ハインツ、おまえ一度落ち着け!」
「どれもなんかイヤ! ドアラはなんかイラつくしラミアも生理的にイヤ! ホルマリンは論外!」
「生理的に嫌だなんて、切なくなるなぁ……。ラミアって名前、格好いいと思うんだけどなぁ……」
 ついにめげた。
 しばらく、沈黙が三人の間に降りた。
 やがて、

「昔、僕が書いてた童話があってね」
 ハインツがそんなことを言い出していた。
「それのキャラクターの名前とか、どうかな?」
「おまえ、童話作家でも目指してたのか」
「才能が無いって親父にさんざん馬鹿にされてやめちゃったんだけどね。
 ……それで、主人公の女の子の名前がユーキノ、主人公を助ける魔女がラミア、
 主人公を騙そうとする魔女の名前がリライ、主人公に襲い掛かる狼の名前がメティレナスというんだ。
 もし、この中に気に入った名前があれば、君にプレゼントしよう」
 どうかな、と少女の髪をなでながら言う。少女は少し考えて、

リライがいい」

 そう言った。
 ハインツは、そうかい、とだけ呟き、少しだけ微笑んだ。
執筆者…夜空屋様

 

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